食事が終わると、選手達はゾロゾロと自分達の部屋へ向かう。
入れ替わりの激しかった食堂も、いまは随分人影がまばらになっていた。
何しろ全国から集められた選手が競い合う合宿所では、練習だって生半可なものではない。クタクタに疲れた身体を引きずって、部屋に篭る人間もチラホラと見受けられた。
そんな中、相変わらず練習好きの将はというと、仲間たちの輪からさり気無く離れ、一人でグラウンドへと向かった。誰にも言わず、こっそりと。
言えばきっと止められる。ただでさえ明日も試合が待っているのだ。むやみに練習しても体調不良を起こしかねない。
それでも、今日１日で得た事をどうにかものにしたかった。人よりもレベルが低いと思い込んでる将にとって、人一倍練習するのは当然の事だったのだ。

パタパタと廊下を走りぬけて行く小さな背中に、丁度通りかかった少年が声を掛けた。
「あれ―――かざま……」
呼び掛けた声も、どうやら将には届かなかったようだ。名前を呼ぶ前に遠ざかってしまった後姿は一目散に外へと飛び出して行く。
「何やろ、こげん遅くに…」
伸ばし掛けた手をゆっくりと戻しながら、昭栄はきょとんと目を見開いてその様子を眺めていた。
時計を見ると、もう９時を回っている。自分はたった今ミーティングを終えて、これから部屋に帰ろうという時間。
「さては……秘密特訓ばしとるとね？」
キランと光らせた目を楽しげに細めながら、昭栄は好奇心一杯の表情で将の後を追いかける。だが、数歩進んだ所でいきなり急ブレーキを掛けると、その場に立ち止まってしばし考えた。
もしも本当に秘密の特訓だとしたら、敵である自分が勝手に覗いても良いものだろうか？
将はそうと知らずに、隠す事無く自分の実力を曝すだろう。そう思うと、何だか自分がとってもズルイような気になって…。
「だけん――やっぱり明日の対戦相手やけん、気になるしのー…。がしかし！…こっそり覗くんは俺の精神に反するばい……」
くるくると表情を変えながら、生真面目な顔でうーんと唸る昭栄は、端から見れば一人で漫才をしているみたいだ。知らない選手が通りすがりに奇妙な顔で視線を向けてくるのにも気付かない。
「――やっぱし覗きはイカン。覗きは！！」
ようやく結論が出たのか、しばしの葛藤の末に昭栄は将が去って行った方向に背中を向けて歩き出した。
だけど、気になって仕方が無くて…。
昭栄はチラチラと後ろを振り返りながら、身体がうずうずするのを感じていた。きっと頭ではダメだと思っていても、身体は行きたくて仕方が無いのだ。
出会った時からその存在は目を引いた。そもそもが自分のコンタクトを守ってくれた恩人でもあるし、その優しい性格も気に入っている。例え【敵】であっても、将となら良い関係でいられると確信だって持っていた。
昭栄は食堂の前を歩きながらぼんやりと考えた。そうして、しばし立ち止まって自問自答を繰り返す。
「何か気になるったい！」
理由は特別無いけれど、もっと話しをしてみたいと思ったし、こうしてまた偶然姿を見掛けたのも何かの縁だと思うのだ。
「―――ばってん……【覗き】やなければ良かばい？…」
こっそり覗くと思うから罪悪感が生まれるのであって、結局は堂々と会いに行けば問題は無いのだ。





グラウンド…と行っても、練習場所はほんの僅かなスペースに過ぎない。
建物からそう遠くない所で、将はひとりボールを蹴り続けていた。腰に結わえた白いハチマキが、ひらりひらりと宙に舞う。
『―――地面に落とさない様に…っと』
慎重に、そして素早い動きでボールを追い掛ける。ボールと共に移動すると、その度にハチマキがふわりと浮かび上がっては落ちて行く。それは本当なら余裕で地面に届く長さなのでうっかりすると、届きそうになる。
将は走りつつも僅かな気配でハチマキが落ちる瞬間を逃さなかった。
『っと、危ない、危ない…』
あと僅かという所で慌ててスピードを上げた。その所為でハチマキはどうにか空中に居残った。
ハチマキを使うのは、都選抜の練習で監督に指示された練習方法だ。その時はチームに分かれての「鬼ごっこ」だったので、相手に捕まらなければ良いという単純なルールに過ぎなかった。だがそれは、確実に選手たちのスピードアップに繋がった。
明日の試合は九州選抜だ。身体も大きくて簡単には抜けられない。そんなチームを相手にするからには、誰が相手でも素早く反応して敵を振り切る事が要求される。
やり方としては奇抜な方法だ。昼の練習でも、他のチームから怪訝そうな顔で見られた記憶がある。だが、そんな日常の動きの中で身につけられる能力を、西園寺監督は好んで選手たちにやらせるのだった。
そうして、将はこのハチマキを個人特訓に利用した。
落とさずに、どれだけ素早く動きつづけることが出来るか―――。
そもそも自分は小さい為、早く動く事でしか対抗する術がない。そんな利点を有効に生かす為にも、もっともっと敏速に動けるようになりたかった。
一定の時間を決めて、その間は絶対にハチマキが地面に触れないように…と。ボールも蹴りつつハチマキも意識する。それは二分された集中力をどれだけ保てるかという難しいものでもあった。


１０分以上走りつづけただろうか。その間、ハチマキは落とさずに済んだので、将は荒い息を整えつつその場に立ち止まった。ハチマキはゆらりと揺れて、ようやく地面に落ちて来る。
「―――次は、もっと長くして……」
将はそっとハチマキに手を伸ばす。長さを調節してもっともっと自分に厳しくする為だ。だが、解こうとする結び目は将の手元からするりと抜けた。
「あれ…きつく結びすぎちゃったかな」
流れる汗をシャツの袖で拭いながら、将は固く結んだ結び目と格闘していた。
結び目に指を掛けて、どうにか食い込ませてみる。だが、堅くなったそれはなかなか緩まない。困惑した顔でハチマキの端を持ち上げた将は、むぅっと拗ねたように口を尖らせた。

「――どれ、ちっと貸してみ」

不意に後から声がする。
振りかえるとそこには、黒いジャージに身を包んだ高山昭栄の姿があった。
「…高山くん？」
「『昭栄』でよか。…個人練習しとうとやろ？――えらいなぁ」
昭栄はそのままスッと将の背中に近づいて、腰に結わえたハチマキに手を伸ばす。そうして、将がどう頑張っても解く事の出来なかった結び目を、意図も簡単に解いてみせた。
「…あ、ありがと」
照れ臭そうに顔を染めて、将は小声で礼を言う。
「何、コレもっと長くすっと？」
「うん、あと２０センチ位…」
将の言葉を聞いて、昭栄はハチマキの長さを調整してやった。そもそも、結び目を解く事すら出来なかったのだ。もしも自分で調整してたらきっと随分時間が掛かったかもしれない。昭栄は口笛を吹きながらのんびりとした動きで簡単に長さを変えてくれた。
「重ね重ね…」
今度こそかーっと顔を朱に染めながら、将はぺこっと頭を下げた。
「いやいや、そげん大した事やなかよ」
昭栄は気さくに笑う。そうかと思うと、地面に置いたビニールの袋を持ち上げてチョイチョイと将を手招きした。
「……え？」
「ちょこーっとだけお茶せんね？――そげんキバリよっと、明日の試合が持たんばい」
指差す方向には小さなベンチがあった。
「でも…」
「練習熱心やっとは良かっちゃけど、ほどほどに休憩いれんとイカン！――息やって切れとうがよ？」
指摘された通り、将はまだはぁはぁと息を弾ませている。何しろ１０分も走りつづけていたのだから無理もない。
「俺も丁度話しがあったとよ。堅い事言わんと、付き合いなっせ♪」
有無を言わさず、昭栄はたった今自分が結んだハチマキを掴むと、ずるずると将を引っ張った。後ろ側で結んだせいか、引きずられる将も後ろ向きに動かざるを得ない。グラリとよろけた身体を必死で支え、将は控えめながら抗議した。
「ちょ、ちょっと待って…っ！倒れちゃうよ！」
「だけん、お前が来ないけん、俺が引っ張るしかなかろ？」
「〜〜解かったよっ、自分で歩くからっ！！」
何分、昭栄の力には限度が無い。このまま引っ張り続けられたら背中から転びかねない訳で、将は慌てて振りかえりながら昭栄に訴えた。
「そうこなくっちゃ〜」
ニカっと笑顔を作ると、無造作にハチマキを手放した。解放された事に、将はようやくホっと安堵の息を吐いた。少なくとも、これで真っ直ぐ歩く事が出来るから。



「こっちゃけん来なっせ！」
将よりも先に到着した昭栄は、嬉々とした表情で手招いている。その子供みたいな表情に将も思わず苦笑してしまう。
何故だか昭栄には逆らえない。やることも突然で、元気の良さだけはお墨付きのキャラクター。どうやら九州選抜の中でもムードメーカーらしく、彼を中心に輪が出来ている所を何度か見た記憶があった。
初対面から自分を【心友】と呼び、こんな風に気に掛けてくれるのは、将だって勿論嬉しく思う。敵でありながら気さくなその態度に、多少なりとも好意を持っていた。
昭栄の待つベンチに向かうと、その上には湯気の立つカップが２つ、ポツンと置かれてある。到着してすぐに気付いた将は、一瞬きょとんと眼を見開いた。
「え？…これって…」
ベンチに近づきながら、将は困惑した顔で昭栄を見上げた。
「コーヒーやっちゃけど……嫌いやなかか？」
「うん、全然大丈夫だよ。それよりも、わざわざ買って来たの？」
「うんにゃ。食堂から貰ってきたと！」
がはははっと高らかに笑う昭栄は、カップを持ちあげて代わりに自分がベンチに腰掛けた。
昭栄が言うには、盗って来たのではなく貰ってきたという事だ。まだ２〜３日の合宿の中で、何時の間にか食堂のおばちゃん達と仲良くなったらしく、ちょっと頼んだら快く炒れてくれたのだと言う。
「ほい、熱いから気ぃつけるばい」
手渡されたカップからはゆらゆらと湯気が漂っていて、包み込んだ手の平が温かい。
まだ春先の季節で夜は少し肌寒く、汗の引いた身体が微かに寒さを訴えていた。
だからだろう、余計にその温かさが嬉しくて、ほわりと心が和んだ。
「ありがと」
「ま、ま、こっち来て座りんしゃい」
トントンとベンチを叩きながら、昭栄はやっぱり楽しそうに微笑んだ。
「高山くんは…どうしてココに……」
「だーかーら、『昭栄』で良かて言っとるばい。変な遠慮は無し、無し！！」
「え、と」
遠慮…という訳ではないけれど、未だチームメイトすら呼び捨てに出来ない将にとって、 それを求めるのは酷というものだ。
困ったような顔で苦笑する将に、昭栄は一人芝居の様にクルクルと表情を変えて続けた。
「お前が『将』で俺は『昭栄』や。同じショウ繋がりやけん、仲良くするばい！」
言ってる意味は不明だが、とりあえず将は小さく頷いて
「じゃぁ、昭栄くん、で良い？」
と言った。
「同い年や。『君』は付けなさんな」
むぅっと口をヘの字に歪めて、昭栄は尚も呼び捨てを強制する。
「でも、慣れて無いし…」
「慣れれば良かよ」
「…それじゃ、そのウチにね」
言い逃れの出来ない強い言葉に、将はただ苦笑する事しか出来なかった。
「お前、変な奴ばい。今時めずらしー【ボンボン】たいね」
「ぼ…僕は【ボンボン】じゃないよ？」
「うんにゃ、俺から見たら立派に【ボンボン】たい。何ちゅーか、雰囲気がそげん感じすっとよ」
「そーかなぁ…」
言い返す事が出来ず、将はこっそり首を傾げた。
自分でもごく平凡な家庭に育ってると思っている。少なくとも【お坊ちゃん】という表現は似合わない。礼儀正しいのは裁判官という堅い職務についている父親なりの教育だ。
「都会モンはいっつもそげな気どっちょると？別に呼び捨てくらい大したこっちゃなかろーが」
「うん、そうなんだけど。何となく…照れ臭いんだよね」
「なしかそら？…呼び捨てが照れるとや？」
「――多分、僕の性格なんだと思うよ」
「ふーん……まぁ良かたい。あんましうじょくじょ考えとうと、頭ん中がパンクするけんね」
昭栄はケラケラと笑いながら何気にコーヒーを啜った。
だが、口に含んだ瞬間、突然ぎょっと目を見開いて顔を真っ赤に染めた。
「―――！！」
「ど、どうしたの？？」
その表情に将もビクッと顔を強張らせた。何事かと思い心配で覗き込むと、昭栄は慌ててゴクリとコーヒーを飲み込んだ。だが、その後でゲホゲホと何度も何度も咳込んだ。
「熱ぃ〜〜っ！！」
突然口の中を襲った大火事。予想以上の熱さは、警戒していなかった舌にモロに直撃したらしく、吹き出す前に必死で飲み込んだ結果、喉の奥まで火傷したみたいだ。
「大丈夫！？」
たった今、自分に気をつけろと言った本人が舌を火傷していたら世話が無い。将は苦笑しつつも心配気な顔で昭栄の背中をさすってやった。
「らいじょーぶ、らいじょーぶ」
ヒリヒリと痛む舌を空気に曝しながら、昭栄は言葉にならない言葉を発した。ほんの少し涙目だけど、表情は笑っている。それを確認すると、将はホっと安堵して自分のコーヒーに口を付けた。
「熱いけんね！ちゃんとフーフーして飲むとよ！！」
昭栄は、将の持つカップを見つめて恨みがましい目を作る。まるで諸悪の根源を睨むような視線に、将はくっと笑いを堪えるのに必死だ。だってコーヒーに罪は無い。それなのに、さも悪者みたいに昭栄はカップを睨んで訴えている。
「ははは…」
将は小さく苦笑して、言われるままにカップの淵でふ〜っと息を吹きかけた。白い湯気が将の息に吹き飛ばされて、闇夜にほわほわと昇っては消えて行く。それを２，３回繰り返して口を付けると、多少の熱さは感じるものの飲めないという程ではなくなった。将はハラハラと見守る昭栄にニコッと微笑んで「大丈夫だよ」と合図して見せた。
将が普通に飲んでいるのを見て、昭栄もようやくカップに口つけた。しつこい位に息を吹きかけての再チャレンジは、どうやら問題が無かったようだ。昭栄の口からはようやく満足そうにコーヒーを啜る音がした。


しばらくは、お互い黙ったままでコーヒーを飲んだ。
山の中にある合宿所では、夜空の星がとても綺麗に見える。昭栄はともかく将にとってはあまり見られない光景だ。しばしぼんやりとその美しい風景に釘付けになった。
静かに星を見上げる将に視線を向けながら、昭栄は突然ポツリと感想を漏らした。
「…ばってん、お前は凄いっちゃね。そげな小さか身体で、よう体力が持つたいね」
試合が終わった後も個人で練習し、皆が寝静まるようなこんな時間にもボールを蹴っている。自分よりもずっとずっと小さな少年は、見た目とは違ってタフなのだろう。
改めて隣に並ぶとその小さな身体に驚いてしまう。そして、その頑張る姿には更に驚かされる。自分は身体的にとても有利にサッカーが出来るけれど、この少年は逆だ。きっと、こんな遅くまで練習をするという事は、当人も必死なのだろう。
そんな将の姿は、昭栄にとってとても好感が持てるものだった。
一方【小さい】という言葉に一瞬ぴくっと引きつった将だが、昭栄の表情を見て、一応褒め言葉だと理解する。少なからず、穏やかに見つめる昭栄の瞳は決して気分の悪いものではない。むしろ、とても温かく感じられたから。
「僕はヘタクソだからね。技術で負けてる分、いっぱい練習しなきゃ…」
「努力型っちゅー訳か。俺はすいとぅよ、そーゆー奴」
「…『すいとう』って何？」
「方言やっちゃけど『好きだ』って意味ばい」
「そ…なんだ」
サッカーに関する事なら、例えどんな事でも褒められると嬉しいと思う。小さく笑って顔を赤らめる将に、昭栄もうっと一瞬だけ頬を赤くした。
そんな将の表情に、どうやら『好き』という言葉を勘違いしたと思い込んだらしい。昭栄は、誤解を解こうと必死の形相で首を振った。
「〜〜〜ちゃうちゃう！――そげな意味やなか！」
「え？…何が？――『そげな意味』ってどういう意味？」
続いてきょとんと目を見開く将がいる。
「どういう意味って………あれ？」
将のそれは本当に不思議そうな表情だったから、昭栄も奇妙な顔で首を傾げた。そうして次の瞬間、将ではなく自分の方が勘違いしていた事に気が付いた。
「お前、ひょっとせんでも赤面症か？」
「う、うん、良く言われるよ…」
「じゃ、今赤くなったんは、単純に照れた所為なんか？」
「うん…やっぱりサッカーの事で褒めてもらえると嬉しいから…」
確かに、最初の会話で呼び捨てを強要する昭栄に、将は真っ赤な顔で首を振っていた。「照れ臭いから呼べない」と赤い顔して言っていたのを思い出す。
要するに―――将が頬を染めたのは、単純に照れ臭かっただけなのだ。
「げーっ！！ばり恥かしかぁ！！……てっきり俺は、お前が『好き』の意味を勘違いしたと思たとよ！」
「え…え？」
尚もきょとんと首を傾げる将に、昭栄は恥かしさのあまり「もー良か！」と頑なな顔で首を振る。
よくよく考えたら、男同士なのだ。例え『好き』という言葉を使ったとしても、それを恋愛感情に繋げる方がおかしい話だ。
昭栄は改めて自分の言動のマヌケさ加減に深い溜息を吐いた。ただ、将が良く解かっていないというのが、せめてもの救いだった。
「は〜〜。焦ったばい」
将に聞こえない様、小声で呟いた。だが、焦った反面、妙に残念な気持も沸き起こって、「ははは…」と無意味に笑ってしまった。
何だか解からなかったけれど、急に落ち込んだ顔をする昭栄に、将は慌てて別の話題を振った。話題転換で気分が変わればと思ったからだ。
「えぇっと―――何か、昭栄くんって眼鏡かけてると別人みたいだね」
特別意味は無かったけれど、最初に出会ったキッカケが「コンタクト」だったので、将は何気に昭栄の顔を見上げて言った。
そこにはコンタクトをはめた昭栄ではなく、黒ブチの眼鏡を掛けた、少し真面目そうな顔をした少年がいた。
「そっか？周りからは眼鏡しとらん方が別人やっち言われとうとよ」
話題が変わった事で、少し元気を取り戻した昭栄だ。将に言われた途端、眼鏡を指で押さえながら、小さく苦笑して見せた。
「多分、見慣れて無いからだね。僕は眼鏡の顔ってあんまり見て無いし」
「お前と初めて会うた時はコンタクトやったけんね。―――あ、そーそー！…実は俺、このトレセンでコンタクトデビューやったんよ！」
「へーっ、そうなんだ」
「もードッキドキやっと。落とすの怖いけん、今は眼鏡にしとっとよ」
「今は夜だから、その方が良いかもね」
何しろ、こんな暗闇でコンタクトなど落としたら、今度こそ永遠に「愛しの一万円」とはおさらばだ。
「だけん、お前とぶつかった時は死ぬかち思ったと。拾ってくれて本当にサンキューな」
「でも、落とした原因は僕にもあるんだし…」
クスクスと将が笑うと、昭栄は口を尖らせて尚もぶんぶんっと首を振った。
「いーや。お前は恩人やけん！――俺の目の輝きはお前のお蔭で成り立っとるっちゃが」
「それは大袈裟だと思うけど…でも、壊れてなくて本当に良かったね」
そこまで話した後、昭栄は急に何かを思い出したように立ちあがった。

「………あ〜〜〜〜〜っ！！」

唐突に将の耳元で叫び声が聞こえてくる。それはまるでオバケでも見付けたかのような、凄まじい驚きっぷりだったので、流石の将もぎょっと身体を強張らせた。
「ど、どうしたの？」
ビクビクと顔を強張らせながら、将が慎重に問い掛ける。
昭栄はくるりと将に顔を向けると、この世の終わりみたいな顔をして「スマン！」と突然謝った。
「俺とした事が何ばしよっとや！！―――今日はお前に礼を持って来たっちゃが――！！」
はっと気付いた様に、昭栄は手に持っていたビニールの袋をガサガサと漁り出した。
練習の『覗き見』はしたくなかったけれど、何かしら将に会うキッカケが欲しかったのは本当で、その為にわざわざ持参したというのに…。
「え、お礼なんていらないよ。そもそも僕の方が悪かったんだし！！」
「そう言わんと、受けとってくれんね？せっかく持って来たんやけん」
袋の中から取り出されたものは、有無を言わさず将の手に押し付けられた。四角張った少し大きめの箱は、どうやらお菓子のようである。
「なに、コレ？」
きょとんと箱を見つめる将に、昭栄はニカニカとそれはそれは楽しそうに笑って言った。
「じゃじゃん！――博多名物【辛子明太子】―――の、ポッキー♪」
「め、明太子ポッキー？？？？」
ぎょっとした顔で将は受けとった箱をマジマジと見つめた。そこには確かにそう記してあって、オマケのように【九州地区限定！】と書かれてあった。
「これな、地方独特のお菓子やっとよ！――空港に売っとったんで思わず買ったっちゃが♪」
昭栄はワクワクという表情で笑いながら、将の手にあるお菓子の箱をビリビリと破って開けた。
「まぁ、食べてみんしゃい！――実は俺も初体験！」
そう言って袋に入った一本のポッキーを取り出した。３０センチはありそうなそのお菓子は、パキッと軽やかな音を立てて昭栄の口の中に潜り込む。
将も同じく一本のポッキーを手にしたものの、口に入れる前に一瞬躊躇して、しばし昭栄の反応を待ってみる事にする。
「………美味しい？」
「〜〜〜〜〜〜う〜ん…」
もごもごと口を動かしながら、昭栄は考え込むように腕を組んだ。
「…なかなか微妙な味なんやけど…この口のなかにまったりと広がる程よい辛さがまた絶妙と言うか…」
「……それで？…」
奇妙に顔を歪めながら食後の感想を述べる昭栄に、将は恐々とした顔で問い詰める。
「結論で言えば、明太子とポッキーは一緒にしてはイカンっちこった」
「それって、マズイって事？」
「まぁ、早い話が」
昭栄が余りにも真面目な顔で頷くものだから、将はとうとう溜まらなくなってぷーっと思いっきり吹き出してしまった。
昭栄の言動や行動は、見ていてとても面白い。だが、本人の前で笑うなんて失礼だと思って出来なかった。それは将らしい気遣いのひとつだったのに―――
だけど、人間の我慢にも限界というものがある。将は可笑しくて可笑しくて仕方が無くて、珍しく腹を押さえながらケタケタと笑いだした。
「あははははっ！――面白いよ昭栄くんって！！」
「なしかそりゃ！？――失敬な奴たい！！」
「だってっ……だって本当に面白いんだもん」
「明太子ポッキーがか？」
「違うよっ、昭栄君自身が！」
「そげなこつ言われても………俺は喜んで良かと？」
「多分、僕の中では褒め言葉だよ」
将は目尻に浮かんだ涙を拭いながら、必死で弁解をする。
「昭栄くんといると、すっごく楽しいや」
それは本当に、将の正直な感想だ。何しろ、こんなに大笑いしたのは久しぶりかもしれない。毎日がサッカーに一生懸命で、悩んだり我武者羅だったりしてたから、こうして思いっきり笑う機会は少なくなっていた。そもそも性格が真面目だった所為か、馬鹿みたいにはしゃぐ事もした覚えが無かった。
「―――なら、良かよ」
『楽しい』という言葉は、昭栄にとって最高の褒め言葉だ。自分の発言や行動でこんなにも喜んでくれる将に、ほんの少しだけ照れ臭そうに笑顔を向けた。
にぱっと微笑む笑顔は、本当に太陽のようだった。笑顔勝負では将も負けてないけれど、昭栄のそれは、将の笑顔さえも誘い出すような、不思議と気持が弾むものだった。
クスクスと笑う将を見つめて、一瞬きょとんと眼を見開いた昭栄は、しばらく躊躇した後にポツリと小声で呟いた。
「……お前、良かー顔して笑うとね」
「え？」
昭栄にとっては将の笑顔の方がよっぽど惹かれるものだったらしい。すっと顔を近づけると、まじまじと将を見つめてくる。
「…なしてそげな幸せそうに笑えるったい？」
眼鏡の奥にある瞳が、レンズごしにじっと将を見つめている。
「幸せそうに見える、かな？」
『幸せそう』と言われても、あまりピンと来なかった。
だが、将にとってはサッカーが出来る環境にいられる事が何よりも幸せな事だから、このトレセンで見せる笑顔は確かに『幸せそう』に見えるのかもしれない。
実際はそればかりでは無かったのだけれど。
「何か見とっとこっちまで嬉しくなるよーな顔たい。『和み系』っち言うと？」
昭栄は更に将を見つめながら、興味津々という表情で顔を近づけてくる。おそらく好奇心からくる行為なのだろう。
だが、将は近づく昭栄の顔に照れてしまい、無意識に後ずさった。
丁度その時……



「コラ〜ッ！！、そこ！！―――何しとんねん！！」
「何やってんだ、風祭ッ！！」



唐突に聞こえてくる関西弁と自分を呼ぶ聞き慣れた声。
将はぎょっと目を見開いて、声のする方へ顔を向けた。
「…水野くん…シゲさんも。――どうしてココに？？」
トレセンでは一緒にいるはずのない２つの影が、建物の方から急ぎ足でやってくる。そんな様子に、昭栄も不思議そうな顔をして二人の方向に視線を向けた。
「―――お仲間？」
「うん」
「でも、あの金髪は関西のヤツやなかと？」
練習中、昭栄は１度だけシゲと対決した事がある。その時は負けた事もあって、悔しさ故にやたらとその存在を覚えていた。それでなくてもシゲの姿はトレセンにおいてとても目立つのだ。
「もう一人は東京選抜のヤツやな。だけん、何で一緒におると？」
「チームは違うけど、出身校は一緒なんだ」
「へ〜。なるほど」
上手く説明は出来ないが、言っている事に間違いは無い。うやむやと言葉を濁す将に、昭栄はそれ以上問うこともせず、３人の顔をきょろきょろと見比べていた。
そうこうしている間に、２つの影は息を切らしながら昭栄の前に立ちはだかった。
水野は一瞬だけ昭栄に厳しい視線を向けると、次に将に向かって責めるような声で呟いた。
「――風祭。お前はまたミーティングをサボって練習してたのか！？」
「え！？――ミーティングがあったの！？」
水野の言葉に、将はぎょっと驚いた。そんな連絡、聞いた覚えがなかった。
「自主的にな。今、皆で明日の事を話し合っている」
「ほ、ほんと！？――知らなかった…」
知らなかった事とはいえ、集団行動の輪を乱してしまった。将はさーっと青ざめた顔でオロオロと水野を見上げててくる。水野はそんな将に小さく溜息を吐くだけだ。
「っちゅーか、お前相変わらず無理しすぎとちゃうの？――決勝前に怪我なんかされた日にゃ、たまったもんやないで！」
シゲも不機嫌な顔で将にたたみ掛けてくる。何しろ、試合前に無茶ばかりやられては、いざ決勝で体調を崩しかねない。将と戦う為にトレセンに参加したシゲとしては、決戦で将が欠場するという結果だけは避けたかった。
だが、二人の機嫌が悪い原因は実はひとつしかない。将がこんな夜遅くに、見知らぬ他人と仲睦まじく笑い合っているという光景が気に触ったのだ。

実際、水野とシゲが一緒にいるのも単なる偶然だった。自販機の前でバッタリ顔を合わせた為、今度の事を話していた所だったのだ。
――そんな時、偶然目を向けた窓の外の風景は、二人を驚愕させるには十分すぎるもので。
お互い、無言で外に飛び出したのは言うまでもない。

それでなくても、将は誰かれ構わず惹き付ける不思議な魅力がある人間だった。出会った頃から好意を寄せていた二人にとって、コレ以上ライバルを増やすのだけは避けたかった。何しろ、ただでさえ将を巡ってはイロイロと苦労しているのだ。
「ごめん…」
そうとも知らない将はというと、二人からの説教にしゅんと俯いて謝る事しか出来なかった。ミーティングをサボって、一人だけ別行動をとって、二人にこんなにも心配を掛けて……。
確かに自分は叱られても仕方ない事をやっていたのだ。将は言い訳もせず、黙ってお小言を聞いていた。
「――とにかく、部屋に戻るぞ！」
「う、うん…」
ぐっと将の腕を掴むと、水野は有無を言わさずその小さな身体を引き寄せた。将は、抵抗する事もできないままに水野の方に歩き出す。
だが、更に強い力が将を反対側へと連れ戻した。それは、将の腰に結わえてあったハチマキの所為だ。ぐいっと引っ張るその力に、将は反動で後ろに倒れ込み、勢い良く昭栄の胸にぶつかった。
「―――なっ！？」
せっかく引き寄せた将がまたしても遠ざかる。水野の一瞬をついて、昭栄は将を奪い返してしまったのだ。
「―――何の真似だ？」
「し…昭栄くん？？？」
将も不思議そうな顔で後ろ向きに昭栄の顔を見上げている。昭栄は、不機嫌そうな二人の姿にチラリと視線を向けると、次にニカッといたずらっ子のような顔で笑って言った。
「そげな怖か顔せんでも良かたい？――忘れ物、渡すだけやけん」
「…忘れ物？」
不思議そうな顔で見上げる将に、昭栄はにこっと笑顔を向けてお菓子の箱を差し出した。それは食べかけの、【明太子ポッキー】だ。
「まー、記念に取っときんしゃい。話題のネタにはなるっちゃろ？」
「あははっ！――有り難う」
受け取った箱を見て、将はまた思い出して笑い出す。
『自分でマズイと言っておきながら、普通、人に渡すかなぁ…？』
そう思ったけれど、それが昭栄らしくて微笑ましくもある。クスクスと笑う将に、昭栄もにこっと太陽みたいに明るい笑顔を向けてきた。
「コンタクトに比べたら安いもんたい！」
そう言うと、今度こそハチマキを離して将を解放してやった。
「明日はよろしゅぅな。試合、楽しみにしとうよ！」
「うん。手加減は無しだよね」
「当然たい！」
お互いにこやかに笑顔を向け合うと、軽く手を振って別れた。
将がずるずるとハチマキを引きずりながら、水野たちの方に向かうと、昭栄もそれを見送りつつ、反対方向へと歩き出した。



「ごめんね、水野くん。ずっと探してくれてたの？」
昭栄と別れ急ぎ足で駆けてくる将に、水野は怒鳴った手前、微笑むことも出来ず、口篭もりながら頷いた。
「ああ…まぁな」
将が近づいてくると、二人はあからさまに安心した顔を見せた。それでも、昭栄に対する警戒心は消えておらず、さり気無く後姿をチェックする。
「…今のは何者やねん。やけにテンションの高いやっちゃな…」
「あのジャージは、確か九州選抜だったよな…」
二人は昭栄の背中を見つめて、警戒心を露にした顔で呟いた。昭栄はというと、建物の方に向かいながら口笛を吹いて歩いている。
その、やたら楽しげな笛の音に、将も振りかえって小さく微笑んだ。
「――九州選抜のＤＦだよ。将来、バティやラウールを倒す奴なんだ！」
「はぁ？」
あんぐりと口を開けて目を丸くする二人に、将はケラケラと笑っている。実際、自分も最初に聞いた時はビックリした記憶があった。
あの時は昭栄の性格を知らなかった所為もあって、ただひたすら驚いただけだったけれど。今こうして、彼と語っていると、そんな言葉さえも信じたくなる。きっと、本当に世界を目指して走ることの出来る人間なのだという事を。
「何だか、昭栄くんが言うと、実現できそうだな…」
口笛を吹いて駆けて行く後姿は、暗闇に溶けてだんだん見えなくなっていく。そんな背中に視線を向けながら、将はまた小さく微笑んだ。
まだ相手の実力はよく解からない。だけど、自信たっぷりなその言動には、それを裏付けられるだけの能力がある証拠だ。
自分にはまだ、『世界を目指す』なんて言い切れる程の自信が無い。ロナウドだって憧れてるだけで戦いたいだなんて恐れ多くて考えたことも無かった。
けれど、昭栄は自信を持って彼等に対抗意識を燃やしている。まだサッカーのレベルは諸外国に比べてあまり高く無い日本の――しかも中学生が。
正直に「凄い」と思ったし、彼ならばきっと諦めないだろうと思った。
口に出した言葉を自分の中の自信に変えて、そうして彼は世界を目指す。
自分はその言葉を信じたいと思っていた。
『願えば敵う』という言葉は、将の中にもずっと存在する希望だったから。



「明日は絶対勝つよ。――絶対、九州には負けない！！」
不意に水野を見上げると、将はたっぷりの自信を込めてそう言いきった。
そう口にする事で絶対に勝てるという自信を持った。昭栄のように『バティ、ラウール』だなんて遠い目標ではないけれど、まずは一番目先の試合に対して、自分の中で自信を作り上げて行く。そうして自分の発言を、自分の中の勇気に変換するのだ。
その強い口調に、水野もシゲもお互いに顔を視線を合わせて首を捻る。将の口からこんなにもハッキリと【勝つ】という言葉を聞いたのは、とても珍しい事だったからだ。

【勝ちたい】でもなく【勝とう】でもなく。絶対に【勝つ】のだと。
そう言い切った将の表情は、ほんの少しだけ大人びて見えるような気がした。

「――早く戻ろう！明日も頑張らなきゃね！！」
振りかえって笑う表情は、もう何時もの将に戻っていた。
ニッコリと笑う顔は子供みたいに幼くて。何時もと変わらない雰囲気を漂わせている。
頬に張られたバンソウコウも、膝に作った擦り傷も。何もかも普段の将そのままだけれど、目に見えない何かが気持を奮い立たせている。
「どないしたんや、ポチのヤツ…突然ハイテンションやで」
「さぁ…？――まぁ、やる気に燃えるのは良い事だけどな」
今だ不思議そうに将を見つめる二人の側で、将は思いっきりボールを蹴り上げた。
夜空に向かって高く高く上がって行くサッカーボールはまるで自分達を象徴しているみたいだ。重力にもめげず必死で空を昇って行く姿。
立ち止まってボールを見つめる将の瞳は、とても穏やかだった。もっと遠く、もっと高く、出来るだけ高みへ―――。そう、祈りを込めて見つめていた。

遠く遠く、遥か空の彼方まで。
自分が目指そうと思えば夢は終わらない。きっと、どこまでだって飛べるのだ。
世界を目指すにはまだ早いかもしれないけれど、まずは今の自分に自信が持てるよう、もっともっと頑張ろうと思った。
「明日も明後日も、これから先もずっと…勝って、強くなろう」
まずは自分を信じる事から始めよう。
―――それは、きっと明日の自分を強くしてくれるはずだから。