「おーいカザ」
「はーい」
「本社からの依頼でお前にお客様だそうだ」
「客？」
選手個人を訪ねてクラブハウスに来客とは珍しい。雑誌の取材やサッカー関係者なら態々お客様なんて扱いはしないだろうし、勝手知ったる何とやらでズカズカやってくる筈だ。
友人知人からも訪問の連絡は受けていない。その上本社を通してお呼びが掛かるのであれば、きちんとした理由のある来訪なのだろうと思われた。

トレーナーに許可を貰い、呼びに来たスタッフの後を追う。
そうしてハウス内の応接室へと向かえば、其処には以前顔を合わせた事のある協賛会社の青年が、相変わらず落ち着いた佇まいで待っていた。
「えっと、貴方は――」
確か、サインを依頼してきて“ファンです”と気遣ってくれた、どこかの会社の専務さん。
心の中で思い出し、慌てて姿勢を正した。
会社名や名前は出てこないけれど、スポンサーの一社である事に変わりは無い。先日のような偶然ではなく、今回は改めてきちんと会社を通じての訪問だと言う。
「先日は突然にもかかわらず、有難うございました」
丁寧に礼を述べながら、彼は隣の男性に視線を向けた。
前回とは違い、同行者が居た。専務の彼よりは目上の者らしく、ゆっくりと立ち上がるその流れるような動きには年相応の貫禄があった。
「こちらはわが社の代表取締役で私の父なのですが――」
「高峰丈一郎と申します」
またも名刺の登場だ。慌てたものの、将がそんなもの持っている筈もなく、取りあえず行儀悪くも手のひらをジャージに擦りつけ、少しでも綺麗な状態で受け取ろうと手を伸ばした。
「あ、有難うございます。風祭です。すみません、名刺はありませんが――」
そんな将の一連の行動に、くすりと、男が小さく笑いを漏らした。
前回と違って、これ位の年齢の男を相手にするのは妙に緊張する。いくら穏やかに笑っていても、父親世代はどうしたって萎縮するものだ。
「突然の訪問をお許しください。練習中にご迷惑でしょうが――」
「いえ、大丈夫です。お気になさらないでください」
どうせ練習もそろそろ終盤で、休憩時間に入ろうとしていた所だ。そうと告げれば相手は益々穏やかに笑った。特に高齢の男の瞳は驚くほどに優しかった。
「先日のサイン、有難うございました。知り合いにも凄く喜んでもらえまして」
「それは良かったです。よろしくお伝えください」
「父に話しましたらとても羨ましがられましてね。どうやら父も相当な貴方のファンだったらしくて」
「先週の日曜に、高坂部長と試合を拝見させて頂きました」
「先日と言うと、マリノス戦ですか？」
「はい。負けはしましたが、貴方の放ったシュート。――見事でした」
「ど…どうも」
正面から褒められるのは流石に気恥ずかしい。無意識に頭を掻きながらとりあえずペコンと頭を下げた。
高峰と名乗った高齢の男は、そのまましばらくじっと将の顔を見つめてくる。若干の居心地の悪さを感じながらも、失礼の無いようにと緊張しつつ堪えた。
彼の視線はどこか奇妙だった。何かを懐かしむような、それでいてどこか悲しげな瞳をしている。
気づいた将は、遠慮がちに声をかけてみた。
「あの…僕の顔に何か？」
「ああ、いえ。すみません」
自分の不躾な視線に気づいたのか、小さく詫びながら苦笑すと、彼はおもむろに口を開いた。

「昔活躍した選手で、貴方に良く似た選手がいました」
「…え？」
「私はその選手のファンだったのです」
「………」
「彼はもう引退してしまいましたが――貴方のプレーを見て思い出しました。懐かしくて思わず泣いてしまった程です」




――潮見謙介はもう居ない。
そうと知って、私は崩れ落ちるように地に膝をついた。
それまで何十年も存在すら思い出さなかった男なのに、執着の意味すら気づかなかった男だったのに。
気が付けば私は泣いていた。途中で何度も息を詰まらせながら、ひたすら泣き続けた。
脳裏に焼き付いて離れなかったあの背中が、そのままずっと遠くに走り去っていく。
振り返りもせずに、笑ってボールを追いかけながら――彼はもう手の届かないところに逝ってしまったのだ。
悲しかった。兎に角悲しくて仕方なかった。

打ちひしがれていた私の耳に、突然響き渡ったのは観客の歓声だ。
溢れる涙をそのままに、私はグラウンドへと視線を向けた。
其処にはもう潮見謙介の姿は無い。だが、彼の姿を彷彿とさせるNO９の背中が在った。大観衆の期待を背負い、ゴールを目指すその背中に息を飲む。
私は知っている。あの背中を――。

その時になってようやく加治さんの言葉の意味が解った。

潮見謙介は今も尚走り続けている。
ゴールを目指して闘志を燃やす風祭将の中で、彼の想いは今も生き続けているのだと。





「私の憧れていた選手はもういません。けれど、今を担う貴方たちには着実に彼ら洗掘者の魂が宿っています。伝わってきます」

私は一人の人間として、子を儲け己の人生を賭けて作り上げたものを託した。
サッカーも同じだ。過去の世で必死にボールを追いかけた熱い魂は、今を生きる選手達一人一人に受け継がれている。まるでバトンのように次の世代へと願いが送られて、そうして日本のサッカー界は開花した。
世代交代と一言で言うなかれ。
世代に関わらず、共にボールを追いかけた情熱は次々に伝授されて今も続いている。
交代したのは“人間”だけだ。サッカーへの想いはずっと変わらない。むしろ時を重ねるごとに大きくなっている。

「先日の試合を見て、改めて私は風祭さんのファンになりました。貴方の活躍をこれからも見守り続けたいと思っています。応援しておりますので頑張ってください」
「は…はいっ！――宜しくお願いします」

風祭選手は私の言葉に頬を染め、慌てて立ち上がり頭を下げた。
褒められる事が擽ったいのか、挙動不審にも視線をウロウロさせて戸惑っている。それをスタッフに小声で窘められて、更に困った顔で眉を下げた。
グラウンドを走る果敢な戦士ではなく、そこに居たのはまだ無邪気さの残る青年だった。
「カザ〜。嬉しいのは解るが、もう少し落ち着け」
呆れたようなスタッフの呼びかけに、彼は今度こそ恥ずかしそうに照れ笑いを見せた。これには私も息子もうっかり噴出して笑ってしまった。








「あの…、今日はわざわざ有難うございました」
「いいえ。こちらこそサインを有難うございました。早速飾らせて頂きます」
「その――高峰さんが以前ファンだったその選手の事ですが…」
彼はじっと私を見つめ、真剣な顔を向けて言った。
「今の僕にはまだまだ届かない相手だと思いますが、僕は僕なりに頑張りますので、これからも応援よろしくお願いします」
深く頭を下げ、次に顔を上げた時には満面の笑顔を浮かべていた。
そこには先程のような微笑ましさだけじゃなく、プロとしての自信をも伺わせる強さがあった。真っ直ぐに前を見て、夢を追う瞳に輝きを秘めながら。


潮見――お前もきっとこんな風に笑う男だったのだろうな。
そして目の前の青年も、潮見と同じように楽し気に笑いながらボールを追いかけているのだろう。どちらも至極簡単に想像が出来た。何しろほとんど同じ顔だからだ。 想像するまでも、なかった。


私が憧れ羨望し、見つめ続けていた選手はもう居ない。だが、その男の魂は確実に、目の前の選手の中にある。
彼のプレーの中に、潮見謙介は生きている。サッカーへの想い全てをバトンに託し、それは父から息子へと引き継がれた。

特別な事ではない。
何故ならそれは、私と同じく“ありふれた人生”だからだ。
父から子へ、その愛情と共に受け継がれるのは“想い”そのものなのだから。








＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊








しばらくして、将の練習メニューが厳しくなったと、目下仲間内では噂されている。
当の本人が弱音を吐いている訳ではないが、スパルタのような怒涛のトレーニングに、疲れ果てた将がその辺に転がって眠り込むものだから、最近ではトレーナーの方が風祭捜索に慌ただしい。
「おーい神部さーん。風祭発見〜」
本日の功労者は山口だ。木陰ですやすや眠りこんでいるチームメイトを無事に保護。
慌てて駆け付けたトレーナーにペチペチ頬を叩かれては目を擦りつつ起き上がる。
「頼むから、せめてクラブハウスで休んでくれ」
やっぱ無茶だろお前と告げた彼らのセリフからして、どうやらそのメニューはトレーナーの指示ではないらしい。将によると個人的に逆らえない某権力者からの指示だと言う。
「…ひょっとして加治会長か？」
「うん。何かね、夜な夜な寮の枕元に置いてあるんだ。次の日の個人メニュー」
「何ぞソレ。ほとんどホラーばい」
「マジかよ、それおっかねえなぁ」
「お前、何か悪さでもしたんやなかと？」
「そんな記憶は無いんだけどなぁ」
あふ…と欠伸をを繰り返しながらまたも眠そうに目を擦る。そのまま再度眠りの縁に落ちるかと思いきや、将は突然パシンと頬を叩いて一気に気持ちを切り替えた。相変わらず過激な“ファイト一発”だ。
「でも、出来ない事は書かれてないからね。やれるって判断されたんだと思えば、むしろちゃんとやらなきゃって思えるから不思議だよね」
「おっ前、ポジティブ過ぎるばい」
呆れ顔の高山にひらひらと手を振って、将は個人トレーニングに戻って行った。ちょっと休んだからもう大丈夫だと笑って駆けてゆく。たった今まで疲れで眠り込んでいた男とは思えない。一体何が、彼をそこまで動かしているのだろうか。
「すげーなアイツ」
「だけん、カザのやつ、確実に力つけてきとるばい」
「こないだの試合だろ？　いつも以上に動きが良かったもんな」
「ああ。何ちゅーか技のキレが違ったけんね」
「集中力も上がったぞ」
「良く食うし」
「フィジカルもちょっと上がった」
「身体ほっそい癖して当たりに強なっとうし」
「………」
「………」
顔を見合わせ、２人は無言で頷いた。
それ以上の会話を交わすことも無く、己のトレーニングに舞い戻る。
共に、思う事はひとつだけ。

――負けられねぇ。





彼等だけでなく、同世代の面々が将を恐れる理由。
それは無駄に高いポテンシャル。一体どこまで成長するのか、底の見えない恐ろしさが彼にはあった。風祭という男は限界を知らない。それは学生時代にとどまらずプロとなった今でも健在だ。
仲間としては頼もしく思える将だが、同時に競争心を駆り立てられる存在でもあった。それを一番近くで感じ取れる高山や山口などは反応も顕著だ。それこそ、過去において水野やシゲが経験したものに似ている。
そんな将の存在が、ジュビロにおける若手世代の機動力にもなっているなど、当の本人は露ほども思っていない。
知っているのは隣で競い合う仲間たちと、それを高みから見物している加治位のものだ。

「今日も頑張っているなぁ、我がジュビロの諸君は」

クラブハウスの一室で相変わらず楽しげに笑いながら、加治は策士のように目を細めた。
窓の外ではいつも以上に気合の入った練習風景が広がっている。
将は思惑通り着実にメニューをこなし、ソレを見た仲間たちが奮起する。思わず笑ってしまう程解り易い連中だ。

風祭将は起爆剤だ。本人が我武者羅に突っ走る事でおのずと周りもその風に煽られる。
周りを巻き込んで、勝手にチーム自体が強くなってゆく。
指導者としてこんなに頼もしい選手も珍しい。それもこれも、サッカーを愛するが故の、サッカーに愛されたが故の“彼等”の性なのかもしれない。

「本当に、謙介の子だなぁ…」

本人は気づいていないだろうが、その影響力は既に父親を超えている。
謙介には天才的才能があった。サッカーのセンスも高かった。それを遺憾なく発揮して、周りを巻き込み盛り上げた。
将にはそこまでの才は無い。タレントの多い昨今ではどうしても埋もれてしまいがちだ。
けれど、努力して謙介の域に追いつくことは出来る人間だ。しかも結果ではなくその努力の過程で、周りを磁石のように惹きつける。

「謙介。お前と語り合った夢は、今ではもう当たり前になったぞ」

空を見上げ、姿なき男に語りかけた。

――まだまだ“これから”なんです。
――これから作り上げていけば良いんです。
――日本のサッカーを。僕たちの“脚”で！

あれから２０以上の月日が流れた。
今やワールドカップも夢じゃなくなった。
彼等の世代が頑張って作り上げた日本のサッカーは、今ではこんなに大きくなった。
驚くなよ謙介。
今じゃ子供たちにとって将来の夢のトップが“サッカー選手”なんだぞ。

『だってこんなに楽しいスポーツが受け入れられない筈がない』

本当に、お前の言うとおりになったな。
私は指導者という立場ではあったが、心はお前と同志だった。
共に過ごせた日々を誇りに思うよ。



「残りの余生はお前の息子と共に楽しむとするか。お前の置き土産だな」

からから笑いながら、彼は大きく伸びをした。
そろそろ練習もピークの時間帯。根を上げそうな若者に激を飛ばすタイミングだろう。
監督には申し訳ないが、現場を退いたとしても生涯気持ちだけは現役でいたいものだ。
勿論余計な口出しはしない。精々アドバイス程度にとどめておくので、どうか大目に見てくれよ。
そう念押ししながら、彼は未だ選手たちの声が響くグラウンドに足を向けた。



「――さて。今度は将と、どんな夢を語ろうか」

夢は想いの数だけ無限大。
遥か遠い目標に向かって、今を生きる夢追い人に想いを託そう。

日本のサッカーは――まだまだ“これから”。